一人はみんなのために、みんなは一人のために、当事者は当事者のために
AWS(Abused Women Support)

体験ストーリー

【体験ストーリー】夫の暴力も、子供の反抗も乗り越えながら、やりたい女性の支援を仕事に


2012/12/30

夫の暴力も、子供の反抗も乗り越えながら、やりたい女性の支援を仕事に


納米恵美子(60代 子ども3人)
公益財団法人横浜市男女共同参画推進協会 事業本部長

◆就活に失敗し、結婚へ

私が22歳のことから話そうと思う。私は思春期から20代前半まで、生きあぐねていた。大学4年生の時のこと。就職活動をしていた真最中に元夫に会った。相手は6歳年上だった。あるサークルで出会って、以来恋愛に突入していった。
就活は大変厳しい時代だった。面接した会社には片っ端から落ちた。卒論と就活、恋愛が重なり、3つ同時並行にパニックになっていた。そんな時、彼から「卒業したら結婚しようよ」と言われ、3月に卒業するとまもなく、その年の6月に結婚をした。1977年のことだった。

その時の私は、結婚にすがりつくような感じだった。女性にとって結婚は、経済行為だと思う。そのころの私は、就活の厳しさを体験し、大手の会社の面接を受けるのは怖い、と思うようになっていった。私の元夫は社会人だった。すでに商社に勤めていたので、結婚して私は専業主婦になった。70年代のことだった。これで経済的にも安心だと思ったことを覚えている。
結婚して1年後の1979年に長女が生まれた。81年に長男、83年に次男が生まれた。しかしそううまくいくわけはなく、3人目が生まれる前から夫との間にはすでに波風が立っていた。

彼の飲酒の問題が始まっていたのだ。彼は商社で営業職をやっていて、仕事でしこたまお酒を飲み、家に帰ってきてもまた飲むということを続けていた。これはほんとにいやだと思った。まだ暴力をふるうことはなかった。その頃の私は、なんとか家族を続けていきたいと思っていた。

◆夫の飲酒問題で原宿相談室へ

そのうちに、ケースワーカーをしている友人が教えてくれた原宿相談室に通うようになった。斎藤学医師が始めた民間の相談室である。このとき3人目の子どもが生まれた。3人目の時は、ぎくしゃくしていることを知っている両親から「ほんとに産むのか」と心配されていた。
その時の私は、仕事はしていないし、ちびの子どもが3人もいて、身動きが取れなくなっていた。なんとか近所の友人に預けて相談室に通った。これはとても助かった。車の免許を取ることを勧めてくれ、免許をとったりしていた。

相談室では、アルコール問題とかアディクションの相談だったので、夫と妻の共依存の問題だと言われた。飲み続けることを支える行動をとっているのではないかと言われた。結婚で自分の問題から逃げたけれど、結局自分の問題に帰ってくることになった。いまは暴力と共依存の問題とは違うと思っているが。相談室では、「相手がどうなのではなく、あなた自身はどうしたいの?」と言われた。そして「あなたは稼げる力があるのか、時給いくらになるのか考えて」と言われた。
私は33歳になっていた。相談に行くことは楽しかった。自分のことを話せるし、なにより聞いてもらえたことが楽しかった。が、はっきりすることなく、ぐずぐずとくすぶっていた。
AKKという市民講座にいくとその会場に波多野律子さんがいた。そこで野本律子さんにも会った。それから、毎週日曜日に原宿に行き、グループミーティングにでて、みんなでお茶をしたり、ご飯を食べたりしていた。

その間、決定的なことはおこらなかった。2回ほど元夫が単身赴任になり、私の目の前からいなくなった。だからか、私の中に夫と一緒に住むようになったときにはまたなんとかやれるんじゃないかという幻想がでてきていた。

◆このままではだめだと思い、パートで働きだした

彼と私と子ども3人の5人のメンバーではもうやっていけないなと思うようになっていったのが35,6才の頃のこと。別れようとおもっても稼ぎがないからどうしようと思っていた
近所にパートタイムの仕事がみつかった。一番下を保育園に入れ、真ん中は学童保育、上の子はかぎっ子にして働き始めた。家から歩いて5分くらいのところに職場があった。

カード会社のお金を借りている人に電話で督促する仕事だった。1回目、2回目の督促まではパートタイマーがやり、それ以降の返さない人への督促は正社員の仕事だった。しかしこの仕事ではいくらも稼げなかった。私が稼いだお金と保育所と学童への支払いとが同じだよ、というと、友人は「将来への投資だからがんばれ」と言われなんとか仕事をしていった。
このままの仕事では月に2,3万円にしかならない。将来彼とやっていけなくなったとき、食べていけないと思っていた。

友人のひとりに、ある生命会社で日本一のセールスウーマンがいた。彼女に「無理かもしれないけれどやってみたら」と言われ、生保の営業レディを始めた。企業への営業だった。1年間営業をしていると何件かは契約がとれた。しかしそんなに簡単に契約がとれるものではなかった。
その後、相手がまた単身赴任になったこともあり、その仕事を辞めた。正直、生保の営業の仕事はしんどかった。

そのころ、相手は飲酒の問題が深刻になりつつあった。また勤め先でも海外赴任から帰らされ、窓際に追いやられるようになっていった。このままではやばいというのが現実になりつつあった。 私は次の仕事として塾の講師を始めた。今の職場と塾を受けて、塾が受かったので働き出した。始めて2週間くらいしたときに、今の勤め先から「今でも来る気があるか」と電話がかかってきた。就職試験で次点だったのが繰り上がったというのだ。塾に「やめます」と言うと怒られて、今の職場に「1か月待ってもらえますか」と頼んだら、受け入れてくれた。言ってみるものだと思った。

◆大きな暴力事件をきっかけに家を出る

1991年のことだった。彼と別れたのは、就職したあとのこと。今の職場は横浜市の外郭団体で、正規雇用で安定していたがシングルマザーで3人の子どもを育てるのは経済的にはきつかった。br /> 1992年の夏にすごく大きな暴力があった。ゴルフクラブを家のなかで振り回して、家のありとあらゆるものを壊しまくった。鏡や照明器具をがしゃんと割り、冷蔵庫をなぎ倒す・・・。しかし、クラブを人に向けるとやばい、と思うくらいの理性はあったようだ。

そのとき、警察を呼んだ。相談室で「外部からの介入がないとだめだから」と言われていた。しかし、その時の警察は何もしてくれなかった。つかまえてくれないのかと聞いたら、血を流しているわけではないので介入できないといって帰ってしまった。
その後、泥酔者の保護という名目で彼を連れて行った。「保護されるのはこっちだよ」と思って怒りがでた。

その間に持てるだけのものをもって、子どもを連れて実家に行った。私は次の日、職場に出勤していた。親には「どうするのか」とせっつかれた。「二人でよく話し合いなさい」と言われたが、「もう私は家に戻るつもりはない」といって、アパートを探して別居を始めた。親に敷金と礼金だしてもらい、保証人にもなってもらった。親がまだかろうじて仕事をしているときだったので、ラッキーだったと思う。

当時は、部屋を借りようと思っても、母子家庭にはなかなか部屋を貸してくれないのが現状だった。「女性だから貸さないのはひどい」といったら、弟は「経済合理性からいえば当たり前だ」と言い、弟に怒ったりしていた。

◆働くことは生活を成り立たせることと自分のやりたいことを実現すること

今の職場の入社試験は「あなたにとって働くこととはなんですか」ということをテーマにしたものだった。私にとって働くこととは、お金を稼ぐことと自分自身のテーマと私自身の主義主張と重なることがあればベスト、「生活を成り立たせることと自分にとって実現したいことをやることだと思う」ということを書いていた。

今の職場に入ったばかりのころ、トップの人に「夫から妻への暴力の問題は扱わないのですか」と聞いたことがある。「女性に対する暴力は外国人女性の問題です」と言われた。当時タイから来た人身売買の被害女性たちを救出する活動が起こっていた時期だった。また、日本人女性の問題は、婦人相談員が婦人保護事業のなかでやっていることで、女性センターでは、主婦の再就職支援などに力が入っている頃だった。

その後、1995年北京で世界女性会議が開催された。そこで、世界中のどこの国でもDVが起きているということが明らかになっていった。同時に日本でも女性への暴力が問題になりつつあった。

女性センターの総合相談のなかでも、女性に対する暴力の時間をつくるようになった。するとほんとにたくさんのDV相談がきたことに驚いた。これは重大なことなんだということが社会に次第に広まっていった。

◆子どものことでは波乱万丈だった


長女は彼と同居している頃から、小学5年生から、学校に行かなくなった。確信犯的に行かなくなった。そのあと卒業式だけ行った。中学校にも入学して間もなく行かなくなった。でも、中3になると「私は高校に行きたい」と言い出した。「私は学校に行きたいんだからなんとかしてちょうだい」と居直った。フリースクールに相談にしてなんとか高校に入ったが、出席点が必要ない高校は私立の高校しかなった。私は長女を何とかしようとほんとにいろいろ画策した。娘の反抗は本当に手ごわかった。私が車を使っていることを知っているから、私の車を壊したりした。

そんな合間を縫って、男の子たちは、家のなかで暴れるようになった。彼らは、親からなにか引き出すには、学校にいかないのがいいと長女をみて学習していた。だから学校にいかなくなったりした。ほんとにそのころは、笑っていられない事態だった。しかし、長男、次男の場合は、私も長女の不登校への対応で「学習済み」だったので、そんなにあわてなかった。すると、二人とも学校に行き出した。長男、次男が学校でさまざまな事件を起こしてくれて、職場に電話がかかってきた。掃除当番のときに遊んでいて、ガラスで手をきりましたとか、階段をすべって降りたらころんで手の骨を折りましたとか。いろんなことをやってくれる子どもたちだった。

元夫はずるく、私には手を出さなかったが、子どもには手をあげていた。私は子どもをかばってやれなかったということを悪いことをしたと思っている。今は長女とは一緒に住んでいるが、居心地がいい。いまだに出ていかない。今振り返ってみると仕事は忙しかったし、子どもたちは何かをやってくれるという毎日だった。当時は、うつになっている暇もなかった。物事をじっと考えている暇がなかったし、いつも動き回っていないと生活が回っていかなかった。

◆仲間とともにAWSシェルターを立ち上げた

そのころ全国調査などはまだない時代だった。野本さんたちに誘われて、1993年にAWSシェルターを立ち上げた。仕事ではまだDVをテーマに取り上げることはなかったが、民間の活動で一緒にやっていこうと思った。私の場合、高い理念をもって始めたというよりは、仲間と一緒にやれるから、というのが本音だった。

斎藤学氏がアメリカのカリフォルニアに10日間くらいスタディーツアーに行ったこともある。実家の母親に来てもらって子どもを預け、アメリカのDVシェルターを見学し、とても刺激を受けて帰ってきた。

AWSシェルターは、DV法ができたころには息切れしてしまい、閉じることになった。24時間ずっと誰かが一緒にいることができなかった。入居者が安全にいられる環境をつくることができなくなっていった。入居者が子どもを虐待してしまうとか、禁酒にしていたのに大量飲酒をするなどの事件がおこり、「もうやっていくのはむり」と感じていた。中心的役割をはたしていた野本さんがSayaSayaの活動に軸足が移りつつあった。一定の役割は果たしたねという流れで結局、継続は無理だということになった。

◆DV法成立にむけてできることを尽力する
1996年に始まったシェルターの全国大会は10シェルターくらいが集まって東京で行われた。お互いにネットワークをしようという目的で始まり、毎年各地で持ち回りでやろうということになっていった。その中でDV法をつくろうという機運が盛り上がっていった。
その時はまだ、DV防止に関する法律がなかった。DV法をつくろうという機運がもりあがってきて、参議院の調査会で院内集会があるといって当事者として話をしたり、内容についても配偶者以外の人からの暴力も対象にしてほしいと訴えた。

結果として、DV法は婚姻関係にある配偶者からの暴力防止となり、配偶者等の、等を入れてくださいといったが入らなかった。なんとか事実婚までは入れることができたが、デートDVはストーカー防止法を適用し、内縁関係のDVはDV法で、ということになった。

そのころ内閣府が実施した調査結果が発表され、3人に一人が暴力を経験している。また、10人に一人が命の危険を感じるような暴力を経験しているということがわかり、少しづつ社会に広まっていくことになる。こうして女性に対する暴力は、国も自治体も男女共同参画施策のひとつとして実施していく項目となっていった。

◆DVセンターを子ども青少年局と男女共同参画センター、区役所の三者で連携して開設

横浜女性フォーラムは、もともと相談の部署はかなりしっかりやっていた。また多くの自助グループが活動していた。AA、ACODA、摂食障害のグループなど、アディクションのグループが多かった。

昨年の9月、横浜市がDVセンターをつくった。改正された今のDV法は、市町村でもDVセンターを設置することが努力義務になっている。横浜市では、DVセンターをどこの部署がやるかという議論になったとき、当初DVセンターは、福祉系の部署と区役所の二者が実施することになっていた。私は男女共同参画センターもDVセンターの仕事をしたほうがいい仕事ができると考え、男女センターも連携してやっていくことを提案した。結果として子ども青少年局と区役所、男女共同参画センターの三者が一緒にやっていくことになった。

これは私が多少なりとも影響力を発揮したことのひとつ、私がいたからできたことだと自負している。やっとここの職場で自分のやりたいことを形にすることができたかなと思っている。

<<体験ストーリー一覧へ戻る
このページのトップへ