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体験ストーリー

【体験ストーリー】誰かに生かされるのではなく、自分が自分で生きるということ


2012/11/20
息子の結婚を機に、DV夫から離れて支援者の道へ
佐光 正子(60代 子ども2人)

◆彼は無口でおとなしい演劇青年だった
私が家を出たのは、1999年のことだ。私は4月に息子が結婚をしたのを契機に、その1か月後に夫の元から離れた。それから今年で13年がたつ。

私は高校を卒業してからある劇団の研修生になった。当時は、高校時代から演劇をやり、新劇の道を本格的に志していたので、親の反対も押し切って、芝居にのめりこんでいる毎日だった。あるとき、芝居のあと私に話しかける演劇青年がいた。それがのちに元夫になる男性だ。その時、彼は私の演技に対して、痛烈な批判をしたのを覚えている。みんなが「よかったよ」と当たり障りのない言葉を言う中で、私は彼に対して「初対面なのに、この人はすごい」という印象をもった。それをきっかけに、その後次第に彼に惹かれ、付き合うようになっていった。

私の両親は神奈川県で養護施設の仕事をしていた。学園の子どもたちと学園で一緒に育っていた私は、外の社会を全く知らなかった。ジャズ喫茶やフランス語学校に通うことが、猛烈にかっこよく見えた時代だった。どんどん彼にのめり込んでいく日々だった。
彼は、普段は無口でおとなしいが、お酒を飲むと人が変わったように熱弁をふるう人だった。ちょっと変わってるなと思ったし、私と会うときはいつもお酒を飲んでいたのに、あまり気にすることなく付き合っていった。

電車賃がないといって呼び出されるような関係になっていた。劇団が解散になり、私もたった一個のアンパンが買えないくらいの貧乏生活をしていたが、なんとかお金を工面して彼に渡すという生活をしていた。そのころの私は「彼を怒らせると関係が終わってしまう」と思い言うことを聞いていた。彼を失うことが怖かった。彼を失いたくないと思って離れられなかった。

◆結婚生活は暴力とともに始まった

彼に家族のことを聞くとものすごく不機嫌になった。どんな風に育ったのか、どんな家族だったのか、全くほとんどわからないまま結婚することになっていった。妊娠したのがきっかけだった。いま思うと変な感じだが、日々が流れていった。

結婚を機に夫は就職をしたが、長女が生まれても、彼は育児などにはまったく協力的ではなかった。子どもが夜泣きすると、「明日の仕事に差し支える。仕事をやめろというのか」と怒鳴られ、暗い台所の片隅で赤ん坊をあやした。おろおろして家にいられず、夜中なのに外に出たり、くたくたに疲れている日々だった。

このころに初めて大きな暴力が起きていた。ある日、元夫が急に怒り出し、ものをひっくり返して部屋の中がぐちゃぐちゃになるということが起こった。理由はつかめなかった。そして「離婚する!」といって勝手に家を出ていったが、数時間すると帰ってきて、なにごともなかったかのように過ごし、急に優しくなったりした。以後、こういうことの繰り返しが始まっていった。

◆自分が悪いの?なんでこうなるの?自問する日々

「なんでこうなるのか?」。「自分が怒らせたのか?」といつも考えていた。けれども自分のなかではどうしても原因がつかめなかった。

あるとき、彼が「自分に腹を立てているんだ」とつぶやいたことがあった。それを聞いて私は「彼がいらいらしているときに彼の地雷を踏んではいけないんだ」と思い、それ以来もっと緊張して過ごす日々になった。近所の人からも、実家の母からも彼は「あの人は本当に難しいね」と言われていた。

彼に一番言えなかったことは、お金のことだ。お金のことを口にすると、彼は私が自分を責めているように感じるらしく、「文句があるならお前が稼いで来い!」と赤ん坊を抱えた私に無理難題を言った。私は、彼にお金のことを言わなくていいように、内職したり、パートの仕事をして穴埋めをするようになって、なんとかしのぐ暮らしになった。アルコールが問題だとわかっていたが、どうしても相談に行きつかなくていた。

そのうち、夫は私のパートの稼ぎをあてにするようになっていった。私が仕事を増やしていくと夫に全部吸い取られる。それはだめだと思い、私は仕事を減らしながら、危機感を感じていた。今思えば本当にひどい状態だったと思う。

◆経営悪化から借金に追われる日々へ

すべてを夫に合わせないといけないことが大変だった。夫が休みの日はこどもたちもいつも家にいないといけない。お酒は毎日飲んでいた。会社の帰りに飲んでくるし、休みの日は朝から飲んでいた。夫が急にどこかにいくぞ、というときには家族全員が行かないといけない。家族は全員、自分の予定が立たてられない。将来設計もできない状態だった。

ちょうど90年代のバブルのころのことだ。あるとき、彼は「独立する」といって脱サラをした。夫の実家も商売をしていたので資金援助を受けての独立だった。
私は自分の仕事や子育てをしていたが、彼はほとんど何もせず、「おまえは不動産屋や内装工事の人を知っているだろ、頼んで来て」と言い、結局は私がやらないといけなくなり、走り回ることになった。

なにかうまくいかないことがあると、全部私のせいにされた。最後の印鑑を押す時だけで「社長、社長」と言われて喜んでいる状態だった。本当に大事なことはやらないし、経理的なことはもっとやらないという状態だった。あっという間に経営は悪化し、ひどいことになっていった。

このころは、長女が専門学校、長男が高校進学と、子どもたちに一番お金がかかるときだった。それから夫の借金が始まった。お金を借りて回すという日々になった。もともと自分でお金をつくることはしない人だったが、借金でにっちもさっちもいかなくなった。

◆もうこの家は壊れているという絶望へ

これからどうするのかと相談すると、彼は自分が非難されている、責められていると感じるのか、「自分は精一杯やっているのに口出しするのか」「お前が責任をとるのか」と話にならず、ぐるぐる回り、会話が成り立たない状況だった。返済日が近づくといらいらする。イライラが募れば募るほど、暴力がひどくなっていった。

あるとき、彼は猫がフーと怒るのをみて、カァーッと逆上し、猫を追いまわし、ライターの火をつけてやろうと猫を追い詰めていたことがあった。必死で止めに入ると、暴力は逆に私に向かい、「おれは猫より下なのか!」と切れてきた。手が付けられない状態だった。彼が興奮した表情や目つき、顔色や息遣いなど、形相が本当の鬼のようで、心から恐怖を感じた。この事件が起こった次の日のこと。部屋中に無数の紙が貼ってあった。その紙には、ゆうべ私を罵った言葉が全部、一言づつ、一枚一枚に書いてあった。このとき私は、「この家はもうだめになっている」と実感した。

その後、店を縮小して、私は新しい仕事を探して、生活費をつくるために働きだした。体が不調を訴えていた。吐き気や頭痛がするなどは頻繁に起こっていた。胸が痛くて体を支えられないということを初めて体験した。

悪寒とか悪夢も頻繁におきるようになり、感情も麻痺してしまい、笑顔もでないし、なんだその顔といわれても、表情が凍りついたまま、泣くことも何もできなかった。一人で部屋にいるとおろおろしてしまって、集中力もない状態だった。「このままでは自分が壊れていく」と思い、「もう家を出なくちゃいけない」という予感がした。

◆けがをさせられたのをきっかけに限界を実感し、決意する

99年のある日のこと、「ふざけんな!」という声とともに目の前にお皿が飛んできた。私の耳の上にあたってけがをした、酔っているので息子を呼びつけて近くの大学病院に連れられて行った。そのとき看護師さんが夫に「反省してますか」と言った。私ははっとして、「ここには私の怪我が夫の暴力のせいだとわかっている人がいるんだ」と驚いた。診察した医師も夫を呼んで、「かなり傷が深いので何針も縫わないといけない」と今後こういうことがないようにたしなめていた。彼は「ふざけていてつい当ってしまった・・・」と言い、酔っぱらったまま、へらへらと言い訳していた。この時、とてもくやしい思いをしたが、何もできなくて終わってしまった。今だったら違う対応ができたと思う。

このとき、わたしのなかで夫への絶望感を感じ、確信ができた。「この人は自分の思い通りにならないと他者を壊してもなんとも思わない人なんだ」と。
こうして家を出る決心がついても、いつ出るのか、どうやって出るのかなど、なかなか決められなかった。しかし「近いうちに必ず家を出ることになる」と感じていた。そんなある日、会社にいると、“限界!”という感覚が私の体の奥から出てくるのを感じた。

◆多くの人たちに背中を押してもらい、固い確信をもって家を出る

先がまったく見えない不安が重くあった。だからまず、私が先に出て、どうすればいいかみえてから、その後長女を連れてこようと思った。夫と長女が家に残ることにはとても不安があったが、私は長女を置いて家を出た。私が家を出られるようになるまで、さまざまなサポートがあり、多くの人のお世話になった。

信田さよ子さんの講演会でおんぶおばけの話を聞いた。そこで開眼できた。「私は今まで子どもを守るため、と言って我慢をしてきたが、そうではなかったんだ」と知り、「子どもになんてひどいことをしていたんだろう」と気づいたこと。
また、営業先の女性経営者には、波田あい子さんの書いた「シェルター」という本を貸してもらった。「ここにあなたによく似たひとがいるから読んでごらんなさい」と。会社で読んだ。「ここにわたしがいる」と初めて気づいた。

会社の同僚に、世田谷にある精神障害者の家族会を紹介してもらった。私の世田谷の活動団体との初めての出会いだった。当時、私が住んでいる団地の上の階に、障害児をもつ女性がいた。彼女は私のことを気にかけてくれて「自分を大事にしなさい」「いつでも鍵をあけておくから、家を出ていいんだよ」と言ってくれた。

私のことをいつも心から心配してくれている人がいたことが心強かった。こうして、その頃から、少しづつ少しづつ、荷物をまとめ、物心ともに家を出る準備をしていった。

◆身近な人たちに支えられたその後の日々

私は、公的な機関を使わずに家を出てきている。女性センターに電話すると、「離婚する決心がついているか」といろいろと聞かれ、当時は本当にお金がなかったので、「離婚はできないし、公的機関を使うことができない」と思っていた。私の身近にサポートしてくれた場所があり、そのおかげで家を出ることができたことは、今でもとても感謝している。

家を出た日は、世田谷の団体には泊まれなかったので、母の実家に行った。母は何も言わず、「とにかく休みなさい」と受け入れてくれた。その明け方に電報がきた。元夫からだった。「至急電話をしろ」と書かれていた。寒い夜のことだった。私は布団の中で震えていた。その夜、彼から電話がかかってきた。彼は母に「娘さんを幸せにできなかった。謝りたい」と言ったという。夫がきたらどうしようと心配だった。私は「もう、ここには泊まれない」とおろおろしてしまった。しかしなんとか母の友達の家に泊めてもらうことになり助かった。母は一人暮らしだし、何かあったらどうしようと思ったが、母は「どんなにきれいごとを言ったって、あれは言葉だけだね」と言い、私に「夫の元へ帰りなさい」とは言わなかった。

そして、世田谷の家族会に行って、相談をした。家族会のスタッフが「あなたの行先をつくってくれるかも」とウェーブを紹介してくれた。「こういう地域の福祉があるのんだ」と初めて知った。こんなところで私も一緒に生きたいと思った。連れて行ってもらったのが、ウェーブが借り上げていたアパートだった。そこでウェーブのパートの一人として仕事をさせてもらい、一日千円のアパート代で住まいを提供してもらった。条件は仕事が休みの時は活動のお手伝いをすることだった。こうして行政ではない民間団体のみんなに支えられ、仕事の傍ら、DV被害者支援の活動をするようになっていった。

◆支援者として恩返ししたいと思うようになる

Tシャツを集める会やいくつかの電話相談、AWS、Saya-Sayaの支援者養成講座、女性の安全と健康のための支援教育センターなど、研修を受ける機会にも恵まれて、直接支援をする現場にも顔を出すようになっていた。そんなとき、世田谷区からDVの電話相談の委託がウェーブにあった。

その後、横浜フォーラムから声がかかりシェルターの本を貸してくれた人との不思議なご縁もあり、AWSにもかかわっていたことから納米さんとも知り合い、3年間相談員として、横浜で働いた。有期雇用の第1期だった。退職後、都内で婦人相談員という仕事をまた3年間させてもらった。そうやって今の自分があるんだと思う。

家を出てきた当時は、自助グループに助けられ、一日をなんとか過ごすことがなにより大切だった。その経験から、DV被害を受けた女性たちを支援する仕組みが身近な地域にないといけないと思うようになった。それも歩いて行けるところに、たくさんないといけない。波多野さんとそんな話をした。これが今の活動の原点になっている。

また、グループの仲間や相談を受けた人たちからさまざまなことを教わってきた。このように、たくさんの人との出会いによって手に入れたものが、私にはたくさんある。これを基に現実と行政の施策とつないでいくことが今の自分の使命だと思っている。

◆最後に

夫と離れたことで一番感じていることは、一人一人にすごい力があるんだということ。それを信じられるようになった。それから、誰かに生かされるのではなく、自分が自分で生きるということ。また、誰かが幸せにしてくれるのを待つのではなく、自分が幸せになるということを実感できるようになったこと。これが私にとってとてもうれしいこと。感謝していることだ。

このごろ、私の凍てついていた顔が変わってきたと思う。幼いころの私の顔が取り戻せてきたように思う。大切な何かを失ったようにみえるけれど、それはきっと取り戻せる。失ったものを埋めていく作業を誰かといっしょにしながら、自分らしく新しい道を歩いていきたいと思っている。
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