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体験ストーリー

【体験ストーリー】あきらめの人生を変えた娘たち
-私は長女の中学卒業を機に、三人の娘を連れて夫から逃げた


2012/05/28
あきらめの人生を変えた娘たち
-私は長女の中学卒業を機に、三人の娘を連れて夫から逃げた
スピーカー:N子さん (40代 娘3人 家をでて10年)

◆はじめに
私は、10年まえに3人の娘を連れて家を出た。結婚して16年、 その間“跡取りを産めない嫁”とずっと言われてきた。元夫とは、実家同士の紹介で出会った。今まで知っている男性とは少しちがう人だった。しっかりしているように見えた。お見合いの後、周りがどんどん進めていき、あっという間に結婚することになっていった。

◆結婚生活
4月に結婚して、9月に長女の妊娠がわかった。長女を妊娠したとき、つわりがひどくて動けなくなった。それでも、家のこと、広大な敷地の掃除や家の仕事をしないといけないと考えていた。
あるとき、突然元夫が怒り出したことがある。私の場合、殴られるのではなく、くどくどと説教される。とにかく謝ればなんとかなる、と思って何度も何度も謝った。謝ると今度は「反省しろ」と言われ、反省したと認めてもらうまで説教をされるという始末だった。あるとき、タンスを背に、立たされた状態で説教が始まった。「反省しろ」がいつまでも終わらない。立ったまま、ついうとうとした。元夫は「反省しないで寝た」と、怒って枕を投げてきた。怖いと思った。けれどもその頃の私は「お腹に子どもがいるから、何とかうまくやっていかないといけない」とかたくなに思っていた。そんな結婚生活のまま、3回の出産をして三人の娘を育てていった。

婚家はその地域では名の知れた家なので、さまざまな地域の行事には出ないといけなかった。いろんな用事で私が外出するたびに、元夫は外出先での私の行動をいちいちチェックしはじめ、夜になると説教する毎日になった。帰宅すると「なんだ、あの態度は」とか、被害妄想なのか、男性と少し話しただけで、「どういうつもりなのか」と詰め寄られた。家では、お客さんが帰るとすぐ、夫の顔が豹変した。その後、私の態度や言動について例の長い説教が始まった。

◆気づき
長女が中学生になった頃のこと、彼女は学校で「男女平等」ということを習ってきた。家に帰ると自分の家はよそとは違うことに気づき、「お母さんとお父さんはおかしいよ」と言い出した。「なんで私の家だけがまんしなければいけないの」と言い出した。小学生の次女も「おかしい」と言い出した。この頃から、子どもたちは夫にどんどん反抗していった。

その頃、反抗する子どもたちと元夫との緊張関係は高まっていった。言うことを聞かない長女に対して「呼んでもこないのか」と怒鳴り、壁に頭を押しつけたりしていた。今までは子どもに手を出すことはなかった。私は、なんとも言えない気持ちになり、「だめだ、これじゃあ。何とかしないと」と思いだした。

わたしの話の内容は、すべて元夫にチェックされていた。本も自分では買えなかった。私の友だちともすでに関係は切れていた。なんとか見つけた雑誌の中で、AKKというところをみつけた。その電話番号を必死でメモし、そこに電話してAWSの野本さんにつながることになった。
母からもらった携帯電話を使って、子ども部屋の押し入れに入って電話をした。話をしている内に、わたしには自分というものがないということに気が付いた。見つからないように時間を作って、精神科の先生のところへいって話をした。先生から「この本を読んでみて」と一冊の本を渡された。私は夫から殴られたことはないし、自分のケースがDVだとは思っていなかった。元夫に本を見つけられると困ると思ったが、隠すことにした。これ以降、元夫にうそをつくことが増えていった。

◆脱出
3月21日午後、長女が卒業式の日だった。三女にはその日まで黙っていて、当日になって「これから旅行に行くよ」と言い、タクシーに乗り込んだ。手に持てるものだけ持って東京まで来、シェルターに入れてもらった。この日は、元夫が数時間は絶対家にいないことが分かっていたのだ。あとから聞いたところ、近所の人たちには私たち母子の行動が奇異に映っていたらしく「奥さん、血相変えて出て行った」と噂されていた。

アパートを借りるにも苦労した。名前を変えたほうがいいと言われて、私も子どもたちも名前を変えた。その時は、私たち母子の身分を証明をするものが何もなかった。今は区役所などでは仮名での手続きすることができるようになったが。特に学校の入学には困った。次女の場合、証明できるものはないと言うと、校長先生が何とかしましょうといって下さり、なんとか中学校に入ることができた。三女は保育園に通うことになった。長女は元夫が役員をしている私立中学校に通っていたので危険だったが、議員やいろいろ方にお世話になって、やっと元の中学の在学証明をもらい、高校に入ることができた。

そうこうするうち、三女は「保育園でお昼寝するのがつらい」といって不登園になった。もともと幼稚園に通っていたので、すでにお昼寝の習慣は卒業していたのだ。その上、私は長女のPTAの役員を引き受けざるをえなくなったりして、忙しい毎日を送った。当時Saya−Sayaがレストランを始めたので、私も車を運転してお弁当を届けたりして過ごしていた。
ある日、隣の家から「あなたの家、誰かがうろうろしているよ」と言われた。1階の角部屋なので、見つかりやすいロケーションだった。いまだに元夫の乗っていた車の音や、夫が歩く足音のリズムが耳に残っている。以後、車の音や足音が聞こえるたびに怖くなった。そそくさと近くのアパートの3階に引越しをした。

◆保護命令から調停、裁判へ
引越しのあと、保護命令を出してもらうため、警察署へ出かけた。鷹揚な態度の警察官に「殴られたり、蹴られたりしたの?」と疑るような目で尋ねられ、本当にいやな思いをした。そのうちに話の分かる警察官が出てきてくれて、なんとか保護命令が出ることになった。警察では、私の話より、東京ウィメンズプラザの方に書いてもらったDV被害者証明のほうが威力があったらしい。それからは、警察官が自宅周辺を一週間に一回くらい見回りをしてくれて、「大丈夫ですか、何かあったらこの番号に電話してください」とメモを入れてくれた。その心遣いがありがたく、とても安心して過ごすことができた。

その頃の私は、髪が逆立っていたような状態だったと思う。元夫との調停も進めなければいけない。弁護士さんが良い方だったので助かったが、夜、一人でさまざまな書類を書かないといけないのがつらかった。いまはボランティアの人に同行してもらい、一緒に書いてもらえたりする。その当時は自分でやらなきゃと必死になっていた。誰かに助けてもらえるとは思っていなかった。
調停は不成立になって、裁判になった。2年後、元住んでいた土地の家裁に行き、やっと離婚が成立した。元夫の大きな声で話す声が聞こえてくるほど小さな裁判所だった。弁護士さんがわたし用に、別に小さい部屋を用意してくれたのがうれしかった。

◆支援者と仲間たち
その後、Saya−SayaのスタッフとしてDV被害者支援に関わってきた。みんなからは“いつも元気でにこやかで、悩みのないN子さん”と思われていた。けれども本当は、不安で仕方がなかった。自分の話しを聞いてもらいたかった。聴いてもらって、うなずいてもらい、自分も仲間の話を聴くことで、すこしづつ落ち着いていった。

その頃、AWSの夜の会合があった。私は「聴くよりも聴いてほしい。子どもがこんなことになっている。どうしたらいい?困っているんです。だれか教えて」と切に思っていた。我慢して聴いているうちに、共感するということを覚えた。そして、聴いたあと、みんなが自分の経験をいろいろ話してくれて、ほんとに安心することができた。10年たっても、いまだに不安だから話を聞いてほしいと思って電話したりしている。心から信頼できる人がいることで安心している自分がいる。

◆娘たちとの関係
長女は実家の母のところから大学に通い、今は東京に帰ってきて幼稚園の仕事をするようになった。一番大変なのは次女だった。中学1年生の夏休みくらいから反抗期というのか、なんともうまくいかない親子関係だった。わたしも親として言わなければいけないことは言わないとと思い、つい口やかましく「そんなことしちゃだめでしょ」と口酸っぱく言っていた。今思えば、子供を“育ててあげている”気持ちになっていたと思う。そのたび、次女は「我慢できない」といって爆発した。

最終的に次女は、元夫の親と実家の親に世話になり、一浪して今は大学に通っている。3年間音信不通のままで、こちらからメールをしても、電話をしても返事は返ってこない。私は次女の声を聞くことなく、もう4年目になる。ありがたいのは、私自身の姉妹を通して次女の様子を窺い知ることができることだ。三女は一番淡々と、いろんなことに動じなく生きられているかなと思う。昨日は彼女の高校の入学式だった。
いろいろあって、今、長女と三女と私の3人で同居することになった。長女と暮らすのは7年ぶりだ。なんだか緊張している。今はまだ、けんかができない。三女も「お姉ちゃんだけど、なんか緊張する」と言っている。気を使いあう関係がもとに戻るときが来るのか、楽しみでもある。

◆今、そして未来
わたしは家を出てから90%実家の母の支援で生きてきた。有難いことだが、いつまでも母に甘えていてはいけないと思うようになった。私は今年4月2日から就職することになった。幼稚園は体力的に難しいが女性のために仕事がしたかった。就職先は婦人保護施設だ。人身売買の被害にあった女性たちの支援をしている。まだ出勤して3日だが、右も左もわからないまま、宿直明けで職員会議に出たりしている。
私は、今だにまだ、野本さんに言っている。「地に足がついている感じがしない。自分が生きている気がしない。いつも人に左右されている」。でも今は「しょうがないか、これがわたしか」と思っている。

自分の心を素直に、出会えた人に支え助けてもらうこと。Saya−Sayaの野本さんたちや波多野さんやAWSの仲間たち、命を燃やして仕事をした幼稚園時代の人たち、それから今日もみなさんと出会えてよかったなと思う。

元夫は東京に来るたび、娘たちに大盤ふるまいをする。長女と三女は、たらふく食べて帰ってきた彼女たちは、「なんであんなおやじと結婚したの。どうみてもおかしいでしょ」と私に言う。今までは、娘から「なんで結婚したのか」と言われるたびに自責で胸が痛んだが、今は「彼にもいいところがあるのよ。その頃は、ああいう宇宙人が好きだったのよ」と言える自分がいるようになってきている。(平成24年4月)


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