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体験ストーリー

【体験ストーリー】人生はハッピーなんだって子どもたちに伝えたい


2012/09/29
人生はハッピーなんだって子どもたちに伝えたい
 〜からだと気持ちを大切にしながら回復する日々
スピーカー:ゆりこさん (50代 子ども2人)

◆はじまりは、DV被害者支援としてかかわったこと
23歳で結婚をして、38歳まで15年間元夫と暮らしていた。
IT関連の企業がDV被害女性にパソコンスキルを教えるボランティア募集をしていたのに応募したのがきっかけで、自分自身のDV被害にきづくことになっていった。

“DVとはこういうものです”という学習をした。殴られたり暴力を振るわれる女性が出ているビデオだった。「たいへんだな、DVの当事者の方って」と思った。その頃は、私がDV被害者だとはまったく思っていなかった。夫からは、殴られることもなく、怒鳴られることもないし、給料もちゃんと入れているし、飲酒や女性問題もない。その後、心のサポートウィズのHPで、モラルハラスメントのページを見つけて、チェックリストをしていくとほとんど全部当てはまっていた。うちの場合は、夫の精神的DVだったのだ。

私の家庭は、夫が白のものを赤だと言えば、「はい、赤ですね」と言わないといけなかった。夫から無理難題を言われても、なんとかやりくりしてやらなければならないと思っていた。また、夫が人間関係を壊して帰ってくると、私が行って謝るなど、関係修復に奔走した。子どもたちにも「パパが怒るからやめようね」と、すべて夫を怒らせないことを中心にした生活だった。
その頃は苦しかったはずなのに、毎日のことだからきづかなかった。一日に一枚づつ増える重荷を、知らず知らずのうちに背負っていた。気づくと分厚い本を何冊も抱えるような状態になっていた。

しかし、何かがおかしいと感じ始めていた。Saya−Sayaの野本さん、松本さんに話を聞いてもらった。すると、「ゆりこさんあなたは立派なDV被害者です」「回復した暁にはわたしたちといっしょに活動してください」と言われ、改めて「そうなんだ」と納得した。一方で、「これで、もしかしたら離婚ができるかも」と光が見えたような気がした。

◆体がサインをだしていた
当時は仕事もしていたので、かなり無理をしていた。動悸、息切れ、めまいがして、とうとう倒れてしまった。それを機に子どもを連れて実家に帰った。

この頃、子どもたちもおかしくなっていた。お友達と遊べない。「自由に絵をかいてごらんなさい」と言われても書けないで、真っ白な紙を前に何時間も座っている。
私が「離婚したい」というと、夫は怒って「おれはお前に幸せな生活を奪われた。お前から慰謝料をとってやる」と言って、最高裁まで闘うと言ってきた。結婚していたころはお金にゆとりがあった夫は高級品をプレゼントしてくれたりしたが、家をでたとたんに「お前にあげたものはすべて返せ」と言ってきた。すべて返して逆にすっきりとした。

離婚は1年半後に成立した。そろそろ離婚が成立するという段階にまできたとき私の体の具合が悪くなった。「つらかったら薬も利用してみたら」と言われ、心療内科に行き、抗不安剤や睡眠導入剤などを処方してもらった。また、飲むと元気が出る薬をだしてもらっていた。夜飲むと眠れなくなるくらい強い薬だった。その薬が3時間きっかりで切れる。切れると倦怠感や疲労感で立っていられなくなるような状態になった。なので、また薬を飲んで奮い立たせて何とかがんばるという生活だった。こんな状態が離婚するまでの7か月くらい続いた。

◆気持ちを吐き出して「ぼろぼろ病」からの回復へ
「先生、体中が痛いんです。こんなに具合が悪いんです。何の病気なんですか?」と尋ねると、「ぼろぼろ病だよ」といわれ、妙に腑に落ちた。
背中が痛くて痛くて耐えられなくなっていた。気がつくと起きているときも、寝ているときもいつも緊張していた。「これまで夫のリクエストに必死になって答えてきた私。踏みにじられた可哀想な私」。初めてそう思うと、ばあーと涙がでてきた。大人になってからあんなにわんわん泣いたことはなかったというくらい泣いた。別室で休ませてもらっている間、看護師さんがずっと手を握ってくれていた。優しく丁寧に関わってもらい、つらい、悲しいという気持ちを出せた。安堵感があった。

ある日、ふと「薬いらないかも」という感じがした。一日抜いても大丈夫。先生に「この2週間、薬を飲まないで大丈夫だったんです」と言うと、「いよいよ僕とのお別れのときだね」と言われた。お守り代わりに、という最後の薬をもらい、それ以後薬に頼ることなく、なんとか健康を取り戻しつつあった。そのとき、家を出て2年くらいたっていた。

◆私が元気を取り戻すと子どもが不登校に
私が元気になるのを待ってましたというくらい、タイミングよく、子どもの具合が悪くなった。当時小学2年生だった下の子が学校へいけなくなったのだ。
週に2回、3回と学校を休みがちになった。そうこうしている内、毎日家にいるようになり、ほどなく、歩けない状態になっていった。家のなかでもハイハイでないと移動できない子どもの様子をみて、医者を訪ね歩いた。

内科では「どこも悪くない、彼の心の問題が原因でしょう」と言われた。小児精神科を探し、いい先生に出会えた。
学校の担任の先生は家庭訪問にやってきて、「車いすで来れるように」とか「迎えにくるから」とか、なんとか学校へ登校できるようにと勧めてきた。小児精神科の先生に相談すると、「無理に登校させると、歩けなくても学校へ行かされるなら、今度は目が見えなくなるようになりますよ。そういう子が何人も入院しています」と言われ、学校は休ませることにした。しかし、私は、仕事にもいけないし、収入もなくなる。すごくいらいらとする生活になった。

毎日、下の子と二人で、顔を突き合わせたまま。唯一お兄ちゃんだけが外の風を運んできているのみ。自然ときつい言葉が出て、「あんたが学校に行かないから、ママが仕事にいけないじゃない!」と言ってしまい、「しまった」と自分を責める毎日を送った。このころは、本当に泥沼にはまったみたいになってしまっていた。

◆「お母さんは関係ないですよ」という言葉に救われた
小児精神科の先生に「私が悪いのでしょうか」と相談すると、「お母さんは関係ないですよ」と言われた。「彼の心の問題ですから」と。「学校へ行けば傷つく体験はさまざまあります。彼がそういうことを自分で乗り越えられるくらいに心が成長したときに、学校に行けるようになりますよ」。この言葉に救われた。

一日ひとつだけやってほしいと言われたことがある。子どもに一つだけ役割を持たせ、やれたらほめること。「ママ、助かったわ。ありがとう」。役割は、洗濯物をとりこむことにした。ちゃんとできると、「ありがとう、やらないですんだわ。ママ助かったわ」と言って、歩けないことや学校のことなど、他のことは考えないで済むようになった。

これは3日もするとたちまち効果がでて、2年生の3学期がまるまるいけなかった子どもが、3年生の新学期になると、学校へ行けるようになっていった。ただ、今だにいけないときもある。そのときは自分でうまい具合に熱をだしたりしている。年間14日間くらいは休んでいると思う。だが、今年はまだ4日くらいしか学校を休んでいない。彼の心が少しづつ成長してきたのかなと思っている。

◆人生に絶望していた長男に希望が芽生えてきた
上のお兄ちゃんは、反抗期がすごかった。壁を殴る、蹴る。私が何か言うと「うるせー」。体の大きい男の子が大声を出すと、私と下の子は怖くて怖くて仕方がなかった。不安だった。でもそれも半年くらいで終わった。

彼は人生に絶望していた。ずっと「どうせ無駄だよ」というのが彼の口癖だった。「なんで学校に行かないといけないの。なんで努力するの。すべて無駄」。生まれながらに、何をやろうとも、どんなに努力しようとも、夫の一言「それは違う。こうしろ」ですべての希望をつぶされてしまうということを叩き込まれて生きてきた。

私の両親は仲が良かったし、私自身は健康な家庭生活を25年送ってきていた。しかし、子どもたちは生まれた時からいつ起こるかわからない夫の機嫌をうかがう緊張感とともに生活してきていた。夫の逆鱗に触れると、一粒のごはんをこぼしただけでも怒られるという、ぴっと張りつめた空気しかしらなかったのだ。
彼が希望を見い出すのに10年かかった。いまは行きたい学校ができて、必死で受験勉強をしている。いままで見たことがないくらい情熱をこめて勉強している。こんな彼を見るのは初めてのことだ。

◆私たちには幸せな未来がある
離婚するとき、お金がほしいといったら夫を怒らせるから、と「離婚してくれたら、他は何もいらない」と言っていた。すると女性の弁護士さんが「あなたは被害者なんですよ。なんで不利な条件でいいというの、堂々と主張するのは、あなたの権利なんです」と言われた。そうやっていろんな人から背中を押してもらってやってきた。また、おととしから養育費が払われない事態になったので、家裁に行ったりするなど、まだしんどい思いもしている。

けれども、今まではがまんして夫の顔色をみてびくびくしながら生き延びていくための苦労だった。今は私が幸せになるための前向きな苦労だから、質がちがうと思っている。後悔はまったくしていない。
もっと夢をみてもいい。私の場合、10年前が1だとしたら、今は1000くらい幸せだと思う。今はもっと幸せになりたいと思っている。

◆頑張りすぎないで自分の小さなハッピー感覚を大切に
もし10年前の私のような状況の人がいたら、しんどいことも多いけれど、前向きな苦労をしてほしいと思う。
私も一度壊れているのでストレスには弱い。今日も調子悪くなったら薬を飲もうと薬持参で来ている。体調が悪い時は、多くて一日3回デパスを飲んでいる。薬を飲みながらでも仕事はできる。夜眠れないときは睡眠導入剤を飲んでいる。

この10年間で3回くらい倒れている。また、私には頑張るくせがついている。相手から100%を期待されると125%で答えようとする。もっと自分をいたわらないと・・・と思う。もう50代も目前。これ以上自分を酷使したらかわいそうだと思っている。

夫の元を離れてから2,3年は、支援者のため、当事者体験を話すの講習会で話活動をしていた。その頃は、自分の体験がつらいことだと思っていたら生きていけないから、わざと鈍感になっていた。聴衆の方から「そんなつらい思いをされて・・・」と涙を浮かべてもらっても何も感じなかった。今は、この話をするとつらくなると思っている。嫌なことは嫌だと思えるし、つらい、悲しい感覚はよみがえってきている。今回もこの話をすることで具合が悪くなるといけないからと早目にこの場を出ることをお願いし了承してもらった。10年前にはすべて相手の言いなりになっていて、相手と交渉するなど考えられなかった。ずいぶん回復したなと思う。

私は、いつも自分を癒す可愛いものとか、好きなものを持っている。今日着ている可愛いニットの洋服はなんと700円だった。カラフルなバッグは猫バッグだ。夫が好きじゃないから猫を飼えなかった。だから家を出てすぐに猫を飼いだした。また夫が飲まないから、とコーヒーを飲まなかったりしていた日々を取り戻すためにも、今は、自分の好きなことをひとつづつ手に入れていっている。

◆将来のイメージを具体的に頭にセットすると夢は叶う
今日はもうひとつ、伝えたいことがある。車のナビは、目的地をいれるとルート案内をしてくれる。頭のナビに将来のハッピーな自分をセットしましょうよと言いたい。
以前の生活では、夫から「お前は車の運転はしてはいけない」と言われ、子どもを病院に連れて行ってもらうのにも、「2時までにいかないといけないからお願い!」と必死で頼んでやっとぎりぎりになってくるまで出かけるという生活だった。別れてから、ペーパードライバーのコースに通い、中古の軽自動車を買って運転しだした。家と保育園と病院だけは往復できるようになった。その後ナビを買った。ナビを使うと、行き方が分からなくても、地図が読めなくても、到着地をいれておけばそこにつける。これがあるなら行きたいところへ行ける。

人間の脳も同じだと思う。具体的に自分がどうなっていたいかをイメージしてみる。「いついつ、こういう風になっている」。このイメージを脳に覚え込ませると本当に、しらずしらずの内に、そこに向けて行動し出すようになる。
例えば、私は「ハワイに行ってフラダンスを習う」と設定した。その後、フラダンスを習い、今年5月にはハワイに行けた。

「3か月後には仕事を見つけていて、月収18万円で暮らし、いきいきと、仲良しの友達と週末は映画を見に行っている」このくらい具体的に設定してほしい。ちなみに私の目標イメージは「超高級なシティホテルの高層フロアで、いい男とともにシャンパンを飲む」というもの。実現したら報告したい。

◆自分を大事にしていいんだよと子どもたちに伝えたい
私は子どもたちにしてあげた一番のことは、加害をする人から引き離してあげたことだと思っている。彼らは自分自身で生きる力を持っていると信じている。
親が余裕がない状態だったら、がんばらないのがいいと思っている。わたしは「ごめん、今日しんどいから、できない」といって寝たり、子どもたちのお弁当もつくっていない。でも友達とはお茶のみに行くのはしている。

ハワイに行ったときは、1週間子どもをほったらかしだったが、特に問題なく、大丈夫だった。人生は楽しんでいいんだ、楽に生きてもいい。ママが自分がハッピーになるために生きているんだと、あえて子どもたちに見せることも大切だと思っている。

DVがある家庭なのに、子どもたちが大きくなるまで、と我慢してがんばってきた母親もたくさんいるのを知っている。しかし、加害家庭に長くいればいるほど、生きづらさにつながっていくのではないかと思う。子どもが、大きくなってから薬を大量に飲んだり、リストカットしたりするケースも聞く。私の経験からいうと、子どもは早いうちにいろんな膿を出せるほうが回復がしやすいのではないかと思う。





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