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AWS(Abused Women Support)

体験ストーリー

【体験ストーリー】DVがきっかけで、自分を好きになれた


2012/12/16
自分を好きになれたこと、いろんな人と出会えたことも、DVというきっかけがあったから
小池宏美さん (40代 子ども1人)

◆だれにも言えなかった夫の暴力

今日は懐かしいメンバーに出会えてうれしいです。
* * * *
私が家を出たのは2000年の6月のこと。当時私は〇市に住んでいて、DVまっただ中。けれど私の体験の苦しさを、友人にも親にも、誰にも話せなかった。
1999年11月、私はある子育てグループに参加していて、その活動の場で「女性問題を考える」というグループが“DV”をテーマに取り上げているのを目にし、DVを学ぶ機会があった。そこで初めて、「DVは、わたしの問題だ」と感じた。もらった資料には東京都の女性相談センターや民間相談支援団体のことが掲載されていた。その時は電話番号が載っているのを確認しただけで、連絡することはできなかった。
その後、何度かDVの問題が新聞記事やニュースで取り上げられているのを知り、「私以外にもDV被害に遭っている人がいるんだ」と思い、とても救われた気持ちになったのを覚えている。

◆家を出てやっていけるなんて全く思っていなかった頃

ある時、その女性問題を考える会の講座に出席していた。講師は波田あい子さんだった。講座の中である参加者が「実は私はDVを受けているんです」「私はどうすればいいのですか」といった。その勇気ある発言を聞いたとき、「私もそうなんだ」と確信した。講師の波田さんは、「とにかく一歩外へ出なさい」ときっぱり言われたのを覚えている。

その時もらった資料の中にあった毎日新聞に電話をし、電話相談の番号などを聞いた。東京都の女性相談に電話したところ、「婦人相談員につながりなさい。怪我をして受診しているならすぐに医師の診断書を書いてもらいなさい」言われた。すでに何回も怪我をして医者の診断を受けていたので、4,5枚の診断書を書いてもらった。これが、その後の裁判で大変役に立つことになった。その時の私は、なぜ診断書が必要なのか、全くわかっていなかった。

2000年の3月からカウンセリングに行き始め、4月からその民間相談機関の毎週1回のグループ相談に通っていた。その頃、一番最初に相談した松田相談員に言われたことがある。「あなたは看護師の資格をもっているんだったらやっていけるわよ」。その時は「この人、何もわかってない。やっていけるわけないじゃない」と思ったのを今でもよく覚えている。離婚は考えなかったことはないが、自分一人でやっていこうとか、やっていけるとか、まったく考えられなかったし、考えたこともなかった。その頃の私は、自分にまったく自信がなかった。今とは別人のようだった。

◆警察への通報から一時保護へ

その間も夫による暴力は続いていた。6月に額を3針縫うけがをした。夜中に救急車を呼んで、警察にも来てもらった。
カウンセラー(臨床心理士)からは、「あなたは家を出る練習をしたほうがいい」と言われ、荷物をまとめて、すぐに駆け込めるビジネスホテルを探したりした。

この時の私は、まだ家を出る覚悟ができていなかった。暴力を受けていることはとてもつらいけれど、家を出ることはできない。家を出ることの方がもっと怖い、もっとつらいという状況だった。自分からは家を出ることができなかった。

ある日のこと、朝から夫に大声で怒鳴られ、暴言をうけ、子どもも泣き出した。その時、警察に電話したら、夫が出ていった。警察に電話すると暴力が収まることがわかったので、警察に何度も電話をしていた。その後、私はパジャマのまま娘とともに警察署に連れて行かれた後、婦人相談所に行き、緊急一時保護で○市の一時保護所で保護されることになった。緊急一時保護所では、滞在できる期間は短いが、生活費をくれたことがありがたかった。その時は仕事を全くしていなかったので、私自身が自由に使えるお金はなく、経済的なことは全部夫がやっていたのもあり、日常の食品を買うくらいのお金しか持たされていなかった。

家を出て初めての夜、娘と一緒に布団で横になっているとき、娘が「これでもう安心して寝られるね」と言ったのをいまでも鮮明に覚えている。

◆たいへんな不安のなか、母子生活を始める

一時保護の3週間の間に住むところを探し始めた。私は23歳で結婚するまでの間、ずっと実家暮らしだったので、一度も一人暮らしをしたことがなかった。そのため自分が一人で暮らしながら子育てできるのかどうか、にとても大きな不安があった。なので、できれば母子生活支援施設に入りたい、と希望を出していた。その後、「空きがあるから」と連絡があり、〇市のある母子寮に入れてもらうことができた。

母子生活支援施設で暮らしながら、仕事を探した。資格を持っていたので、仕事は早く見つかった。調停をするのが重要だったので、まずは時間が短いパートとして病院で働き始めた。働き始めた当初は、すごく大変だった。仕事を再開したのも本当に久しぶりだったし、不安があった。それに加え、これからやっていけるのだろうかという莫大な不安を抱えていた。

◆夫に居所がみつかる! が、仲間の支えで乗りきる

その時は、住民票は前のままで移していなかったのだが、8月に私たちがいる場所を元夫が探し当ててしまった。前の住所地近郊の母子寮を一つ一つ全部見て歩いていたらしい。前の家で乗っていた子どもの自転車を避難先に持ってきていたのが見つかったのだ。これは失敗だった。元夫は「出せ」と大声でわめき、「出てこい」と事務所で怒鳴っていた。それからも元夫はたびたび来るけれども、事務所で留めてもらっているので、私と娘には会うことはなく、何とか無事に過ごすことができた。このときは母子寮にいてよかったと心から思った。

2000年に全国シェルターシンポジウム東京大会が開催された。そのとき自助グループ分科会があり、野本律子さんと波多野律子さんが担当されていた。この分科会で全国から来ていたいろんな参加者に会って刺激を受けたことを、今でもよく覚えている。そこで当時、ウィメンズプラザの事業で保育つき自助グループやさまざまな講座があるということを知り、講座に通うようになっていった。9月からAWSの自助グループ“ムーンストーン”にも通うようになった。

大きな不安でいっぱいのとき、支えてくれたのが、民間相談機関のグループやムーンストーンの自助グループのみんなだった。それがなかったら、どこかでつぶれていたと思う。大変な時には最初に出会った民間相談機関のカウンセラーらに相談しながらなんとかやり始めたという状態だった。

◆婚姻費用分担申立てと同時に、勝手に離婚届を出される

母子寮にいることはもうわかってしまったので、母子福祉の手当などが受けられるから、住民票を移した方がいいと言われ、手続きに行った市役所の窓口で「すでに離婚届が出てますよ」と言われたのだ。

家を出る前に署名をしておいてあった離婚届を勝手に使われたのだ。自分の知らないところで私の姓が元の姓に変わっていたことがすごいショックなことだった。何の了解もなく、勝手に名前を変えられたこと、自分の知らないところで勝手に戸籍が変わっていること、姓が変わっていることがショックで、落ち込んで泣いていた。しかし、次第に「許せない」という怒りに変わってきた。
6月に家を出て、9月に婚姻費用の分担の申し立てをした。すると、それからすぐ、9月末に相手が勝手に離婚届を出してしまい、それが受理されてしまっていたのだ。

離婚届を出したのは「婚姻費用を払いたくないから」という理由だったという。昔も今も経済的にとてもがめつい人だった。
鈴木隆文さんという弁護士さんに依頼したところ、「どうせ離婚するんだから、慰謝料の請求や財産分与でも戦える」と言われた。しかし私は、なにより離婚届を勝手に出されたということがつらく、悲しかった。頼りのカウンセラーからも「あなた、ここでやらなきゃ立ち直れないわよ」と言われたこともあり、奮起することになる。

まず、離婚無効の調停の申し立てをし、これはあまりもめることなく調停が成立した。その後、離婚の調停をすることになり、これは決着がつかなくて、結局裁判になった。最後は高等裁判所までの長い戦いをすることになった。

◆自分を見つめ、過去を振り返りながら、自分を好きになっていったこと

ちょうど調停中だったころ、2001年からDV法が施行になった。森田ゆりさんの話を聞く機会があった。講演の中で彼女は言った。「人間には何億年という歴史があるなかで、あなたはたったひとりの存在なんだ。かけがえのない存在なんだ」と。私ははっとした。確かに長い長い人間の歴史の中で、私はたった一人の存在だ。その時以来「自分って大事な存在なのかな」と少しづつ感じられるようになった。それまでは自信もなかった。家を出る前も自分のことが好きになれなかった。それまでの私はずっとそうだった。

私は、中学3年の時、学校へ行かず、登校拒否をしていた。その時は苦しいなかで、自分以外の人になることで乗り越えていた。名前も違う、顔も違う別人になっていた。今だったらきっと多重人格みたいな診断がされると思う。
家を出てからも、まったく違う人になっている自分を想像をしたりしていた。それが、いままでのことを振り返ったり、私ということを意識するようになっていくとともに、いつのころからか、空想することが少なくなっていった。いまでは空想することはほとんどない。自分のことも、誰が何と言おうと「大好き」だと言えるようになれた。

◆娘との葛藤と父親との面会交流のこと

私たちが家を出たとき、娘は3歳だった。そのころの私は、漠然と子どもとうまく遊べないなあと思っていた。

その娘が中学3年のころ、学校へ行かないといい、登校拒否になった。その時、「あのときお母さんは一緒にいてくれなかった」「お母さんにむちゃくちゃ怒られた」「あのときはこうだった」と家を出てから今までの不満を全部ぶちまけてきた。本当に大変だったときはそうだっただろうなと私も納得するようなことばかりだった。

その後、ある時娘が睡眠導入剤をひと箱全部飲んでしまい、救急に運ばれるということが起こった。そのときに精神科に一緒に行き、診てもらった。お医者さんからは「娘さんはお母さんをすごく求めている」と言われた。そして「父親も求めている」とも言われた。娘は、離婚が決まったとき「父親と会いたい」と言っていた。

ある講演会でリンダ・ジンガロさんが言っていた言葉がある。「子どもは傷つくことがあるけれども、受け入れざるを得ない。暴力をふるう父親と面接で問題が出てくれば、その都度ちゃんと向き合えばいい」と。

私は父親と娘の面接交渉を受け入れることにした。しかし、相手がやはりだめだった。子どもは面接に行くたびに傷ついて帰ってきた。
今はまだ娘には、父親のことは突っ込んでは聞けていない。傷つきの体験があるので、今後また問題が出てくるだろうと思う。でも、そのたびにちゃんと向き合っていこう、なんとかがんばっていこうと思っている。

◆思ってもみなかった支援者として、性暴力被害者支援看護師へ

あるとき、土曜日のムーンストーンのレクチャーミーティングで、野本律子さんが「みんな、今のわたしを見ていると、この先みんながどうなるのかわかるよ」、みんないい支援者になれるよ、みたいなことを言われたことがある。その時は「私は絶対そんな風にはなれない」と思っていたけれど、いまの私は、性暴力被害支援看護師の研修を受けて、ある性暴力被害者支援組織で支援の一端に関わるようになっている。

その時は「そんなことは無理」と思っていても、時間がたてば気づかない内に、少しずつ階段を上っているのかなと思う。人生ってそういうものなのかなと思う。

◆DVがあったことで大切なものを得た私

それまでの私はずっと一人で生きているんだ、今までもこれからもそうだと思っていた。それがDVにあったことで、自分自身のことを振り返ることができたと思う。登校拒否していた時のことも、DVのこともつらいことだったけれど、とてもいい機会になったと思う。今、私が自分を好きになれたと思うのも、DVというきっかけがあったから。これがなかったら、今も自分を好きになれてなかったかももしれない。いろんな人と出会えたことも私にとってとても大切なことだ。そして、人は力があるのだ。けれども一人では生きていけない、人とつながって生きることもとても大切なのだと実感している。
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